傷と鏡
律→モブ 地獄合宿の後
お年玉事件の時の傷が残っていたら、、という妄想
1378文字
2023-01-24 01:58
地獄合宿の薪焚きのお風呂に鏡なんてあるはずもなく、いやあったのかもしれないが正直風呂のことは薪にかかわるのであまり思い出したくない。翌朝は筋肉ですし詰め状態の洗面所で意識朦朧としながらなんとか顔を洗い、まあ先輩方にお世話になったことは確かなので感謝しているし後で改めてお礼をしなければいけないけど、とにかくそんなことをしていたために僕がそのことに気づいたのは無事家に帰ることができた日の夜だった。数日ぶりにゆっくり一人の時間を過ごせるはずだったお風呂の時間、僕は鏡で自分の顔を見て、あの時の傷跡が消えていることに気がついた。
母も帰宅したばかりで疲れているはずなのに、なぜか僕に一番風呂を譲ってくれた。それなのにろくに湯船に浸かりもせず早々に浴室を出た僕は、髪を乾かすのもそこそこに二階へ向かった。律、もうねるの?と呼びかける母に「ちょっと」と返して足早に階段を上った。思考が一拍遅れでやってきて、答えになってないじゃないかと焦るが、母はそれきり何も言ってこなかったので、僕は振り返らなかった。
部屋のドアを開けると、兄さんはまだ眠っていた。帰ってくるなりリビングで眠ってしまった兄さんを部屋まで運んで寝かせたときの部屋の状態と今の兄さんの部屋を頭の中で間違い探しをする。兄さんも部屋の中の物も1ミリたりとも動いていない。
「兄さん、」
布団の側に腰を下ろして声をかける。兄さんは恐ろしく静かな寝息を立てたまま少しも動かなかった。こういうとき、僕はいつも安心したような寂しいような感情に襲われる。にわかに我に返り、衝動的に兄さんの部屋まで来てしまったことをやっと自覚した。
今ごろになってやってきた恐怖に嫌な汗が滲む。…だけど大丈夫なはずだ。兄さんの様子が心配になって様子を見に来たとか言えばいい。実際まるきりの嘘ではない。言い訳を頭の片隅に用意しながら、もう一回、兄さん、と呼んだ。ああ、目覚めない。兄さんが起きないことを確認するたびに覚えのある感覚に襲われる。後で後悔するのを分かっているのに誘惑に逆らえない。僕は恐怖に導かれるように、眠る兄さんに話しかけた。
「兄さん、ほら見て。あのときの傷、もうすっかり治ったよ」
手のひらで前髪をかき上げて兄さんに見せつけるようにする。自分から兄さんに額を見せるのは初めてだった。自分が興奮しているのが分かった。兄さんに聞いてほしいことがたくさんある。今ならなんでも話していいんだ。そう思って、兄さんの寝顔を眺めながら何から話そうかわくわくしながら考え始めると、途端に気持ちが冷めていった。ああ、僕はまたやってしまったのか。
兄さんは眠り続けている。この分だと明日いっぱい眠ったままかもしれない。僕が今ここで何を言ったところで、兄さんには何の影響も与えることができない。この傷は、兄さんが僕につけて、兄さんが治して、僕は傷が残っていることを兄さんに話せないでいるうちに、その機会はもう永遠に失われてしまった。そして兄さんはこんなこと知らなくても何の問題もなく生きていける。ずっと傷を抱えて生きてきたつもりでいた僕だけが取り残されて、兄さんはまたしても僕の知らない場所へ行ってしまう。
傷くらい残しておいてくれたっていいのに。あんなに嫌だった傷が今は懐かしかった。