「卒業」
220305律霊ワンドロ
律が中学2年生
2284文字
2022-03-05 22:13
その三分間はきっと、僕がずっと求めてやまずにいた時間だった。兄の師匠は真っ直ぐに僕を見ている。丸暗記した卒業生への祝辞は、手元に広げた原稿を見ずともするすると舌を滑り出てゆき、このまばゆい時間が刻々と過ぎてゆくのを示していた。
◇
「霊幻さん、明日何時ごろいらっしゃるって?」
夕飯のカレーを口に運ぼうとしたとき、母が唐突に言った。
兄が口の中のものをゆっくりと飲み込んでから答える。
「……えっと。何て言ってたかな」
「あやしいわね……もう一回ちゃんと伝えておくのよ」
「霊幻さんだって、時間が分からなかったら連絡してくるんじゃないのか。大丈夫だろ」
食卓で繰り広げられているのは、明日に控える兄の卒業式についての会話のようだった。そうか。霊幻さんも来るんだ。その意味を理解した瞬間、頭の中で何かがぐにゃりと曲がるような感覚がした。
ポタ。
「律」
名前を呼ばれて顔を上げると、兄がこちらを見ていた。先ほど頭をもたげた感情の正体を掴み切れないまま、兄さんと一緒に登校できるのは明日が最後なんだな、とぼんやり考える。
「律、大丈夫?」
そう言われて初めて、手に持ったスプーンが折れ曲がっていることに気がついた。視線を下すと、テーブルにカレーがこぼれている。
兄さんが新しいスプーンを引き出しから取り出し、僕に渡してくれた。
「ありがとう、兄さん」
スプーンを受け取りながら僕は兄に笑いかけた。
「律までぼんやりして。明日の挨拶、大丈夫かしら?」
「在校生代表だっけ? はは。律も珍しく緊張してるのか」
母が心配そうに、父が楽観した様子で話しかけてくる。大丈夫だよ、と曖昧に頷いていると、兄がまた感情の読めない表情でこちらを覗き込んできた。
「律、疲れてるの?」
「そうなのかな。今日は早めに寝るよ」
カレーを腹に押し込んで、僕は賑やかな食卓から逃げるように自室へと向かった。
◇
あ、師匠。……えへへ、失敬。明日は十時からで。はい。……そうですね、校門で大丈夫だと思います。……僕ですか? まあ、多少は。それより師匠こそ……
布団を頭まで被って何度も寝返りをうっていると、壁を挟んだ向こうの部屋から兄の声が聞こえてきた。電話の声がこうもよく聞こえることを、兄は未だに知らないのだろう。僕だって別に、聞きたくて聞いているわけではない。ただ、なんだか、二人の時間を覗き見しているようで、僕はその度に居心地の悪い気持ちになるのだった。
僕は緊張しているのだろうか。あの人に見られるから? 明日は兄の晴れ舞台だ。主役でない僕が失敗することなど許されない。あの人も兄を見に来る。僕が祝辞を述べている間も、きっと兄の後ろ姿を見つめていることだろう。明日僕はきっと、壇上から二人の時間を覗き見してしまうのだ。そう思うと恐ろしかった。
そうしているうちにいつしか浅い眠りについて、夢を見た。僕は卒業生の席に座って、兄さんが壇上で在校生代表の祝辞を述べているのを見ていた。おかしいな。立場が反対だ。生徒会選挙の時のことを思い出して、僕はちょっと泣きそうになりながら、一語一句聞き漏らさんと兄さんを見ていた。兄さんの視線は僕のいる卒業生の座席を通り過ぎて、どこか一点を真っ直ぐに見つめていた。
◇
「ここで、在校生からお祝いの言葉があります」
司会に名前を呼ばれ、立ち上がって返事をする。今朝もう一度確認した原稿を頭の中で必死に反芻しながら会場を歩く。これが緊張でなくて一体なんだというんだ。壇上への階段に一歩足をかけるたび、背中に嫌な汗が滲むのを感じた。こんなことは生まれて初めてだった。マイクの位置を調整しながら思わず卒業生の席を見渡すと、兄さんはすぐに見つかった。卒業証書授与のときにカチコチに固まっていたのが嘘かのように、穏やかな表情で僕の言葉を待っていた。兄さんを見たら少し安心して、そして僕の意識は会場後方の茶髪頭に吸い込まれていった。
見慣れたグレーのスーツ姿で、今にも泣きそうに目を赤くしたその男は、僕と目が合ったことに気がついたのか、わざとらしく眉を顰めてごまかしてみせた。それを見たらなんだか急に頭の中がすっきりして、夢の中の兄さんが見つめていたのはこの人だったのだと、ふと気がついた。すると夢で見た兄の姿をなぞるように、暗記した原稿が僕の口から再生されていく。ゆっくりとまばたきをして、僕は卒業生に視線を戻す。瞼の裏には今しがた見た兄の師匠の表情が鮮烈にこびりついていた。
祝辞は淀みなく読み上げられていく。これが終わった時、あの人の視線はまた兄のもとへ帰っていくだろう。けれど、たった今、兄を介さなければ関わることのなかった人の僕しか知らない瞬間が生まれたのがたまらなく不思議で、そして僕はただの影山律としてあの人と一対一で関わってもよいのだということにようやく思い至る。今日の帰りに、そうだ、あの事務所に寄って帰ろう。こんな日ですら、どうせ午後から営業するに決まっている。そう思って、その人のことを存外知っている自分に気づいて素直に嬉しくなった。会いたいなら会いに行けばいいんだ。目を合わせたいなら僕が最初に向き合おう。何かから解き放たれたような晴れ晴れとした心地だった。この時間が終わるのが惜しいような、早く放課後になってほしいような、胸の焦がれるような思いで僕は壇上で霊幻新隆という人の視線を感じていた。